Bana's diary

Banaがのんき気ままに暮らす小屋。小説「Catherine〜キャサリン〜」を書いてます。キャラは貸したり借りたり

Catherine~キャサリン~9 「ゴースト 1」

これが物心ついた瞬間というのだろうか。
気がつくと廃墟に寝そべっていた。冷たいコンクリートとざらざらした砂が頬を腫れさせる。
今まで何をしていたか、まったく思い出せない。
とりあえず、起き上がる。喉がゴロゴロ動くように、勝手に低い声がもれた。両手を見る。少し黒ずんだ擦り傷がある以外は普通だ。足を見る。両方ある。色の濃いジーンズに黒いベルト。口を親指で触れてみる。乾きかけた血がついた。顔全体を触れてみるが、あとは何もつかなかった。
「・・・?」
頭の中が文字通り、真っ白だ。
廃墟には白い光が粉々に割れた窓ガラスからさしこんで、辺り一面を明るくしている。灰色のコンクリートで出来た建物。傷や黒いしみ、隙間から生えてきたツタ、重そうな錆びた金属のドア、白い小さな洗面台と配管、その上につけられたヒビと苔だらけの小さな鏡、散らばるガラスの破片。何もかもが理解不能だ。
そして、全身が痛い。起き上がることしかできない。どうしてこうなっているのか、自分は誰なのか。
少々考えて気がついた。わからないのは自分のことだけだと。それ以外の知識は山ほど頭に叩き込まれている。そうなると、こうなる前の自分はかなりの勉強好きだったんだなと少し呆れてしまうほどだ。使えるのか使えないのか、色々な知識が頭に溢れていた。
さて。こんなこと後回しでもいいとして、ここはどこなんだろう。そして、自分は誰なんだろう。世に言う「記憶喪失」だろう。血がついていたことから、誰かに記憶喪失にされたか。あるいは事故か。でも、よくよく考えてみろ。この角度からこの割れた窓ガラスを突き破ってこうなったとは説明し難い。それに、自分の服にも体にも、ガラスの破片は見当たらない。
「・・・あ」
鏡が気になる。自分の顔を見ることができるだろうし、何か思い出せるかもしれない。
重たい体を引きずって鏡に近づく。ひっそりと白い洗面台に両手をつき、両足を踏ん張って立ち上がった。両足は筋肉痛のように痛み、腕は切られたように痛む。
顔をあげると、もう一人の自分がいた。右目は深い青、左目は薄い青の両面。髪は薄いブロンドで垂れている。顔からして男。右額から右顎にかけて、乾いた血が線を落としていた。どうやら思っていた以上に大怪我しているようだ。だが、頭の痛みは薄い。
他に目立った外傷は見当たらず、乾いた血を擦り落とせば何らかわりない、普通の男性に見えるだろう。血を落とそうと、右腕の服の袖をまくった。
「・・・あ・・・なんだこれ」
右腕の内側にはびっしりと切り傷が並んでいた。これはきっとリストカットだ。痛々しくピンクの傷もあれば、古傷もある。
俺はあまり人に見せまいと思いながら、血をはぎ落とした。

外に出てみても、あまり状況は変わらなかった。この廃墟は忘れ去られた場所同然らしく、まわりの建物は綺麗でもこの廃墟だけはとってつけたようだ。
最大の問題が浮かぶ。いく宛も家もわからない。
ふと、上着の中をあさった。黒いジャケットに青いギンガムチェックの厚手のシャツを重ね着した、いかにも普通の服装だ。ジャケットの内胸ポケットから、カードがでてきた。
身分証明証のようなものだが、どこか違う。
「・・・・・運転免許証?」
車とバイクが運転できるという証明証だった。そして、名前。
「・・・・・ヴァイゼ。ヴァイゼ・アルテミス」
口に出して自分の名前をいってはみるものの、なんの変化もない。さして何も思い出せなかった。
運転免許証をしまい、ズボンのポケットをさぐる。
財布らしき黄土色のケースが出てきた。小銭少々、札が9枚。それからクレジットカード。どのくらい入っているかわからないものを無闇に使うのはよくない。
「・・・・・・まずは銀行でどのくらい入っているか見ないとな」
ヴァイゼは財布をポケットへし舞い込んだ。

銀行になんとかたどり着いたヴァイゼは、その金額に絶句した。
「・・・なんてこった」
その一言に、隣に立っていた中年女性に「どうしたの?」と声をかけられた。それほどひどい顔をしていたのかと思い、ヴァイゼは女性に向かって笑顔で会釈した。
一生遊んで暮らせる。
そんな夢のような大金がクレジットカードには収まっていた。
呆然としながら、ヴァイゼは銀行をあとにする。こんなに大金がつまったカードを持っていると、誰かに狙われているのではないかと内心疑心暗鬼になりながらも、行き先のない足を早める。そして、ふと思い立った。
「・・・こんなにあるなら、今みたいな緊急時に使うべきだよな。自宅がわかるまで、モーテルかどこかにいればいい」

モーテルの無駄に広いベッドに仰向けで寝転んだ。
一体自分の中でもなにが起こっているのか。
なぜこんなにも、流れるように冷静でいられるのか。
なぜ自分の事だけぽっかりとわからないのか。
数々の謎が頭の中を巡りに巡り、どこから紐とけばいいのかわからない。目の前にぐしゃぐしゃに絡まりあった糸の塊をおかれた気分だ。
「・・・一体どうすれば」
口に出してはみるものの、いい案は浮かばない。両手を伸ばし、天井にかざす。少し血管の浮き出た両手の甲が気持ち小さく見える。
その両手でさえ、何なのかわからなくなりそうに、頭の中は混乱していた。
「・・・ん?」
右腕の奥で、何かが動いた。
ヴァイゼは右腕の袖をまくりあげ、リストカットの上に目をやる。
そこには、カラフルな革製のデフォルメされた花のブレスレットがさがっていた。パステルカラーの女々しい、少し色落ちしたブレスレット。
「・・・なんでこんなもの」
ヴァイゼの頭の中には、しなやかな髪色の髪を二つに分けて結んだ幼い顔をした女性がよぎった。
「・・・誰だっけ・・・娘?彼女か?」
考えを巡らしているうち、歩き疲れた事も手伝って、深い眠りに落ちた。
続く

Catherine〜キャサリン〜8 「ヒョウキ・リディア 2」

頬に少ない土がへばりつき、不愉快きまわりない。少しの間、意識を失っていたのか、あたりはじんわりと暗くなっていた。ポケットをまさぐるが、時計は出てこない。先週にマリアに取られたのを思い出し、ため息をつく。

リディアはぶるぶるとせわしなく震える腕を柱に上半身を無理矢理起こした。背骨と脇腹、腹が激しい痛みに震える。不規則に電気を流されているかのように、大きくぶるっと震わせながらやっとの思いで立ち上がった。悪魔狩りをしようと足を伸ばしたが、もう体力もなくなり、歩いて帰るというのに足が言う事を聞かなくなっていた。おまけに鎌もない。

リディアは恥ずかしそうに小さく笑う。

「・・・・帰るか」

 

小さなマンションの一人暮らし用の部屋に二人で住んでいても窮屈とは感じなかった。もしかしたら、慣れてしまっているのかもしれない。そうだとしたら、どんなに情けないか。

ドアを開けると、いつものソファに仰向けに横になり顔面にゴシップ雑誌をのせたヒョウキが可愛らしい寝息を立てていた。リディアが帰ってきた気配に気付いたのか、むくりと起き上がり、片目をこする。リディアのコートが泥まみれになっているのを目にすると、目を皿にした。

「リ・・・・ディア?どうしたんだ、それ?怪我でもしたか!?」

「そんなわけ無いだろうが・・・・子供じゃあるまいし。転んだだけだ」

「十分子供っぽい理由だぞ!?」

ヒョウキは矛盾する返答に焦りに焦りまくっていた。リディアの右頬に擦り傷があるのを見ると、ヒョウキは唇を噛み締めた。

「誰にやられた・・・・?」

嫌気に低いその声に、リディアは震え上がった。ヒョウキはリディアの華奢な両肩を力強く握り締め、問いただすように同じ言葉を繰り返す。

「誰にやられたんだリディア・・・教えろ」

「誰って・・・・悪魔だよ、もう退治した。何をムキになってるんだ、ヒョウキ」

リディアは平静を装ってヒョウキから逃げた。念を押すように険しい顔付きになる。

「もう退治した、この世にはいないよ。ちょっと油断してたのよ、誰にでもあるでしょう?」

少し咳をしながらリディアはヒョウキから離れた。

 

ヒョウキはリディアと入れ違うに出かけ、真っ暗な中さらに更けていく真夜中に酔いしれていた。真っ黒の夜空の下にぽつぽつきらめく数々の色のライトが目の奥を刺激して気分が悪くなりそうだ。その街の一番高いオフィスビルの屋上でヒョウキはニコニコしながら絶景を見下ろしていた。もちろん、そこで働いているわけでも関係しているわけでもない。見つかれば警察ザタだ。そんなことお構いなしにヒョウキはクマに抱き上げられた青い瞳を薄める。真っ黒で空が包む月がうっすらとあたりを明るくしている中、

ヒョウキの血は飛び散った。

腹のど真ん中を縦に綺麗に割られ、うっすらと開けられた唇の僅かな隙間から血反吐がゆっくりと流れ落ちた。真夜中に無理やり起こされた幼稚園児のように、ヒョウキは顔を歪め、唇をつり上げて、少し後ずさった。

「ちょっと乱雑すぎるよ。背中を急に刺すより、想定外の前からご登場!ってな感じで。もっとスパイス効かせて欲しかったな」

「あぁ?」

鎌はヒョウキに刺さったまま持ち上げられ、ヒョウキの体は腹の真ん中から頭の先まで縦に裂けた。その死骸が鈍い音を立てて硬い屋上のなめらかなコンクリートに叩きつけられる。細身の鎌は宙で素早く振られ、血を周囲に撒き散らす。

その血はぬくもりもなく、赤黒くもなく。地に叩きつけられた途端、ただの鋭い氷の粒手となった。鎌の持ち主、サイド・ニーバンスは、はじめは奇妙な目つきでそれを見届けたが、すぐにふっと真顔に戻った。

そして、ヒョウキは何事もなかったかのように、無傷のまま立ち上がり、サイドのほうを向いてニッと笑った。冷めた色の銀髪が、サイドの暗い髪の色も手伝って無駄に明るく見える。

「俺が何言いたいか、わかってるよな」

サイドは更にヒョウキを睨むが、当の本人はただただ笑ってみせるだけ。

「キリオはどこ行ったんだ。最近、目にしないと思ったら気配そのものが消えてな。お前なら何か知ってるだろ?」

「なんだそれ?親友と同じ顔の俺を殺せるわけ?」

サイドは伏せ目がちに俯いたが、目の鋭さは消えていなかった。

「髪の色が違うだけで、かなり違うんだぜ。その顔に銀髪なら、はらわた煮えくり返るぐらいイラつくんでね。どこにいるか、教えろ」

「そっか!ならこれならどうだ?」

ヒョウキが人差し指でちょんと頭をつつくと、髪の色は薄い金髪になった。ショートカットに不自然に右耳の周りだけ肩につくぐらい長い髪は、鮮やかに月に反射する。ショートカットの右側にとってつけたような髪だ。

サイドは苦虫を噛み潰したような顔をすると、鎌をヒョウキの首先にかざした。

「お前の遊びに付き合ってる暇ねぇんだよ!!頭のイカレタ野郎は精神科にでも突っ込まれてろ!!俺の質問に答えろこのノロマ!!」

「そんなにいっぱい言われたらわっけわかんないぜ、サイドちゃん♪」

ち、と舌打ちするとサイドは鎌を引っ込める。

「じゃあ一つずつ説明してやるよ、脳内花畑め。もう一人のお前はどこに行った?

 ヒョウキは馬鹿にしたように人差し指をくるくると自分の目の前で回し、「あー、そんなこと?」とでも言うように、余裕ありげに笑う。

「死んだよ」

その一言でサイドは打ちひしがれたように目を丸くした。

しばらくの沈黙のあと、サイドの手は小さく震えだした。それを隠すようにまた鎌をヒョウキに向け、笑顔を返すことなくただ睨みつけた。

「・・・・お前が殺したのか?」

「なんでだよ!!」

「なんで・・・って、お前以外ありえないだろ。あいつを殺すなんて」

ヒョウキはけらけらと笑う。夜中にその声は響き渡り、長く聞こえた。

「安心しろよ!!あいつはまだこの世にいるぜ。浮遊霊っつー形でな」

サイドは顔を上げたが、やがてしかめっ面をする。

「テメェ・・・あいつの魂を消すつもりだろ!!?」

「そぉに決まってんじゃん!!あいつさえ生まれてこなければ、俺は俺が生きていた時代にちゃんと死ぬことができた!!だけどあいつが生まれてきたから俺は死に方もわからずにフラフラ彷徨ってんだぜ!?ソウルイーターだって、俺の体には効かないしよぉ!!」

テストの点数がかなり悪かったことに開き直るかのように、ヒョウキはバカ笑いしながらそう告げる。サイドの表情にさらに雲が走る。悟るようにサイドがつぶやく。

「もしお前がそんな事しようもんなら、そんなことができない体にしてやるぞ」

「やれるもんならやってみろよ」

突然、ヒョウキの声がドス低くなる。

「でも、まぁあいつがまたお前に会いに来るような機会はねーよ」

「はぁ?」

サイドが驚いて眉をひそめると、ヒョウキはまた笑った。

「あいつはもう全部捨てたんだ。全てを捨てた。死んだその時から。ガキ死神のフィリ・ファルチェ・アンジェロと愛鎌のジルエット・タロンみたいにな。もう記憶の欠片もない。生きすぎた死神は死んで浮遊霊になる。自分がゴーストだって分かっても、生前が死神だったなんてわからないだろうな。生前、自分が死神だったとわかるまで、ずっと彷徨い続けるんだぜ。これぞ最悪の死神の第二の人生!素敵なタイトルだと思わねーか?」

にぃっと不気味な笑みを浮かべると、サイドの表情を弄ぶように眺めた。

「俺だって今すぐあの浮遊霊を殺したいね!!だがまだ手をつけないのはなんでだと思う?」

ヒョウキがゆっくりと立ち尽くすサイドの周りを歩き出す。

「簡単だ。場所がわからねぇんだ!わかってたら今この時間にはもう俺が手をかけてる。タイムリミットはわからない。あいつが、自分は死神だったということを思い出せば勝手に成仏するからな。あんたもせいぜい頑張りな」

ヒョウキが振り向いたその先に、もうサイドの姿はなかった。

続く

Catherine〜キャサリン〜7 「ヒョウキ・リディア 1」

「死神狩り・・・恐ろしいことをよく言うなお前は」

「リディアこそ俺のことお前って言ってるじゃんー」

子供のように両頬を膨らませてヒョウキは悪態をついた。

「冗談でも死神を殺せるなど私の前で言うんじゃない」

「冗談なんかじゃないよ、リディアちゃん♪」

銃をおもちゃのように弄びながらにぃっと笑う。オレンジ色に揺らめく銀髪が否応なく恐怖を奮い立たせる。「バカバカしい」とリディアはギターケースを肩にかけた。

「なぁんでわかってくれないんだよぉ!俺が何人の死神をぶっ殺してきたか、わかってんのぉ!?何百人とだよ!?この世の死神は俺の敵!!」

「じゃあなぜ殺し続ける?もう気が晴れただろう。他人には殺せないお前なんだから、そろそろ荷を降ろして死んだらどうだ?」

シャレにもならないブラックジョークを叩きつけるリディアに向かって「うッ」と呻くと、人差し指を掲げる。

「俺には絶対に仕留めないといけない敵がいるんだよ」

「誰だよ。私か?」

「違うなぁ」

ヒョウキは不気味に頭を垂れる。リディアは金色のドアノブに手をかけたまま、答えを急かすように片足で床を叩いた。すいっと頭を上げると、リディアを振り向く。

「もうひとりの俺だ」

「もうひとり?」

「俺のクローン。別に恨みがあるわけじゃない、恨みなんて持ってたって荷物だしな。ただ殺しておきたいだけだ。魂をな」

「魂?なんだ、死んでいるのか」

「魂がさまよってちゃあ、俺の顔に泥塗るのと同じだぜ・・・」

急に低く、冷たくなった声。凍える銀色と青がさらにそれを引き立てた。リディアは少しためらったあと、ドアから離れギターケースを放り投げる。中から細い棒のようなものがガシャンと音を立てるのが聞こえた。リディアはヒョウキに寄り添うようにソファの隣に座ると、ヒョウキの顔を撫で、桜色の唇でそっと頬にキスした。

ヒョウキが頬に沿われていたリディアの手を握る。

「あんたが怒るとソワソワする」

リディアは目を細めた。

「どうしてだ?」

難しい顔をしてヒョウキはリディアの頭を撫でる。

「普段お前は私に優しすぎるから・・・・・あの時だってさ」苦い思い出を思い出したリディアは苦虫を噛み潰したように唇を噛み締め、眉をひそめ、目を薄くした。左手はヒョウキに掴まれ、右手はまだヒョウキの頬を触れたままだ。

「私が・・・・相棒を・・・・グレイアムを亡くしたとき、わかってるだろ?見ず知らずの私に話しかけたのは、あんただろヒョウキ」

悪魔狩りで相棒で肉親であったグレイアムを生きたまま火炙りのような形で、目の前で亡くしてしまったリディアは当時、憔悴しきっていた。もともと両親の仇を討つために悪魔狩りを買って出ているというのに、これじゃあ同じことだとなんどもなんども悩んだ。大切な人ばかり、いなくなっていく。守れない。自分のか弱さに、リディアは潰されかけていた。

「そうだな・・・何年前だ?」

「3年前だ。髪が銀色だったのは本当に驚いたよ、私と同じ精神に問題があって入院してる奴の一人かと思った」

ヒョウキは「そうか?」と自分の髪をクシャクシャに撫でる。リディアは幸せそうに微笑んで、クシャクシャにされた髪を撫で付けた。

「あの時は・・・なんて言うかな・・・お前に呼ばれたような気がしたんだ。なぜか、リディアっていう名前まで分かった。俺の変な特技なんだ、見た人の名前がわかる。一字一句間違えずにな。窓の外を眺めてるお前は後ろ頭しか見えなかったのを今でも覚えているよ、目に焼き付いてて離れないんだ」

白い毛布を手で力強く握り締め、窓の外を眺めるリディア。肩が小刻みに震えているのに気がついたヒョウキは、その患者がどれほどの恐怖を味わったかを考え始めていた。そして、その患者の握り締めている毛布がだんだんと赤くなるのに気がついた。

「はじめてあんたが話しかけてくれた時は、なぜだかホッとしたよ。まぁ、あの時はただ単に私が拳を握り締めすぎていたせいで爪が食い込んで血が出てて、お前がそれに気がついて慌ててたからだったけどな」

リディアがふにゃっと笑うと、ヒョウキは少し照れたようにリディアの頬に手をかけた。ヒョウキが唇にキスすると、リディアもつられて目をつぶった。

「・・・プリンの代わり」

「プリンはプリン、キスはキスだろ?」

意地悪そうに笑うリディアに冗談半分で悪態をつくと、ヒョウキはもう一度リディアの頭を撫でた。リディアは寂しそうに小さくつぶやく。

「・・・だから、そんな優しすぎるお前だから。相棒だから。ヒョウキだから。怒ると怖いんだ。心配なんだよ。私の周りで次々人が死んでいってるっていうのに、大切で愛しいお前なんかを私の周りに置いていいのかって。そして怒らせて・・・」

リディアは固く目をつぶると、両親とグレイアムの姿を瞼の裏に映した。

「私は人間だけれど、鎌を持ってる。それに、周りの人がどんどん死んでく。大昔にいた「最悪の死神」に見立てて、私のことを「最悪の女神」って罵る奴もいる。お前が・・・私の近くにいて・・・もしも・・・」

「大丈夫だ、リディア。現に俺は死んでない!生きてるだろ?相棒を捨てて死ぬような奴じゃないぜ、俺はさ。だから全部任せろ。絶対に死なせない、死なない。お前は不幸を知りすぎだもんな。俺が幸せってやつを教えてやるよ!」

ヒョウキが笑いながらリディアの背中を叩く。リディアはヒョウキを見つめながら、自分の愚かさを再び思い知らされ、胸が苦しくなった。

 「全くお前は・・・・気楽でいいな」

「なッ!?は、励ましてるんですけど、リディアさん!?」

馬鹿にしたように笑うリディアを見てホッと胸をなでおろしたものの、よもや今からビルの上から飛び降りたり、首をつったり、海に飛び込んだり、線路に飛び出したりするのは人間である以上リディアには簡単なことである。

ヒョウキはそれを忘れずに再確信しながら、出かけていくリディアの背中を愛おしそうに眺めた。

 

リディアは小さな背中に大きなギターケースを添え、丈の長いブーツでつかつかと路地裏を歩く。排気ガスが飛び散るパイプ。既に原型をとどめていないゴミの山小さな虫。汚れだらけの建物の壁。ゴミ箱の羅列。影ばかりだ。

「マリア」

前方から優雅に歩いてこちらに向かってくる、浅い黒のスーパーロングヘア。包帯を固く巻かれた目はぷっくりと膨張している。まさに今ヤリおえたと言わんばかりの紫のワンピース、黒のブーツ、片手には茶色い上着、片手には黒いバッグ。この場にはなんとも不自然だった。

「あぁら、ハローリディア」

「そろそろ返してよ。借金。何ヶ月待ったと思ってるの?」

ふふん、と鼻を鳴らすマリアにリディアはイラつきを覚えた。

「返すわよ、返せばいいんでしょう?」

マリアは残念そうに黒のハンドバッグをリディアに向かって投げた。黒いジッパーの先には何十個もの札束がゴロゴロ転がっていた。

「ちぇ。昨日頑張ってためたっていうのに・・・はじめからになっちゃったじゃない」

「借りる方が悪い、でしょう・・・ねぇ、マリア。いつまで待てばいいのかしら」

リディアは両腕を組んで後ろめたそうに右足元に視線を落とした。マリアはその様子を見て、舌をちろりと出す。上着を羽織ると、偉そうに片足を前に突き出す。

「まぁそう焦らない焦らない。焦ってたって、いい結果は出ないわ、わかるでしょ?まず、そうねぇ・・・お金無いのよ私は。でもあんたお金持ってるでしょ?違う?」

リディアはとっさに左手をポケットに突っ込む。その様子を、マリアは見逃さなかった。

「その指輪、ちょーだい♡」

「だッ・・・・だめよ!!これはッ・・・・・」

リディアは怒りで顔が真っ赤になった。そして、片手を口に当て、激しく咳き込み出す。マリアの口の端は徐々に目に近づいてゆく。リディアは息を荒らげ、マリアを睨む。

「こッ・・・・この指輪・・・はッ・・・・・ケホッ・・・・・ヒョウキが、ヒョウキがくれたも・・・・のだから、絶対にダメ・・・ッだめ!」

「ヒョウキとグレイアム、どっちが大事?」

リディアは身震いした。

「ッ・・・・たくさんあげたじゃない!!私の内蔵の一部を売ったお金があるでしょう!?どうして・・・グレイアムは戻ってこないの!?言うことを聞けば、グレイアムを生き返らせてあげるって言ったじゃない!!!!」

大声を張り上げると、また苦しそうに咳き込みだした。そして、ゆっくりとギターケースを降ろす。

「わかった・・・・わかったわ、鎌をあげる。私の鎌。グレイアムと同じぐらい大切なもの・・・だから、グレイアムを生き返らせて・・・・・マリア、お願い・・・グレイアムを」

マリアはリディアの前髪を鷲掴みにすると、その腹めがけて膝蹴りを食い込ませた。リディアの体はくの字に曲がり、口から唾液と血液が混じって飛び出した。マリアが手を離すとリディアはその場に崩れ落ち、腹を抑えて咳き込む。

「私、条件を満たさない上に急かされるの嫌いなの。まあ、いらないって言うんなら貰ってくわ」

マリアはギターケースを拾うと、リディアを残して汚い路地裏を後にした。

血と唾液を吐き出しながら、リディアは小さくヒョウキに助けを求めていた。

続く

Catherine〜キャサリン〜6 「キャサリン 6」

 「まだ夢みたいだ」

ニーナの横でクリスは虚ろに呟いた。ひとり暮らしのクリスはアジトに泊まってニーナから銃の扱い方を教わることになった。キティはホテルに帰り、離れるわけにはいかないとサリーもついて行ってしまった。

ニーナと二人きりのアジトは広く感じる。二人がまだ幼い高校生というのも理由の一つである。

「アジトっていうことはほかにもいるんだよね?」

ニーナは真っ黒の銃身を錆びた茶色のクロスで丁寧に拭いながら笑った。

「もちろん。でも、自分の家を持ってる人は全然ここには来ない。仕事がなくなった時だけ情報を集りに来るわ。家がない人はここに寝泊まりするけど、今はあいにくお仕事中。男も女もいるのよ。あわせて20人ぐらい?不思議な人もいる」

「不思議な人って?」

爪と肉の間にこびりついて乾いてしまった絵の具をこさぎ取りながらクリスは頭を垂れた。重たい銃身を冗談めかしてクリスに向け、にいっと笑うニーナはどこか悲しげだった。手の甲で叩くようにそれをどかすと、クリスはその薄い悲しげな雰囲気がなぜ漂っているのか探ろうとした。だが、明るいニーナの中にそんなものが見える訳もなく、クリスは再び床を見る。

「本当に不思議な人。この間、ここに紹介されて所属した人。なんていう名前だったっけ・・・・・・・・・ヒョウキ!そう、ヒョウキよ。日本人らしいけど、目の色が青だからきっとハーフね。髪の毛が銀色でね。銀は悪魔を追い払うからね。その象徴として染めているのかもしれないけど、はたから見たらただの悪趣味よ。よくあの頭で外に出れるなぁって思うほど。もちろん大人。でも、かっこいいのよ。服のセンスはこのアジトで一番。でも、いつも急に出てきて急に帰っちゃう。おまけに意味不明なことしか言わないし。あたしは嫌いなタイプだなぁ」

銀の髪。青い目。悪魔を追い払う。意味不明。ヒョウキ。

なんだか、本当に足を踏み入れてはいけない領域に足を踏み入れてしまったという感覚にひどく襲われたクリスは吐き気さえ催した。同じ事態にキティが陥っていることを思い出し、クリスは自分を奮い立たせた。

 

「ニーナ、あたしよ。キティ」

ニーナがキティと朝日を迎えるべく、ドアを開けた。入ってきたのはキティと朝日で薄く照らされて路地だったのだが。肩にリュックをかけている。

前日と同じ服を着ているニーナを見て、キティは目を細めた。

「お風呂・・・入った?」

「え?入ってないよーどうせ銃の整備してたら汚れちゃうしー洗濯物増やしたくないから服替えないしーこんな生活してたら、4日は風呂に入らないよね」

クリスもその点は目をつぶっていたが、こじ開けられることになる。母親に毎日体を清潔にしなさいと耳にタコができるほど言いつけられていたクリスは、初めて入ったアジトでさえも、風呂を借りたしまつだ。だが、ニーナは入っていない。クリスも声をかけたが、「あーいいのいいの、どうせ汚れちゃうから」の一言で打ちのめされた。

キティがわなわな震え始めた。

「・・・・ねぇキティどうしたの?これから作戦立てるんでしょ?キ」

「今すぐお風呂に入ってニーナァッ!!!!」

キティは見るからに汚れて古ぼけた作業着を指さして言った。ニーナは目を丸くしてカッカしているキティを見る。やってしまったと言わんばかりにクリスは両手で目を隠す。

「女の子がそんなんでいいのッ!?おかしいわよ、4日もよ!?4日!!今すぐお風呂に入って!その手で触らないで!近寄らないで汚いのが移っちゃう!!」

「な、ななななな、何それひっどーい!!!」

ニーナは怒りながらも椅子に掛けてある服の中から派手なピンクと白のストライプ柄のオーバーオールとハイネックの真っ黒の服を掴むと舌を出して階段を駆け下りていった。

「あ!待って、私が徹底的に洗ってあげる!!」

キティはこの世で1番の潔癖性だという一番大切なことを言い忘れていたクリスは自分を責め、心の中で小さくニーナに謝った。そのあと「でもそれはお前も悪い」と付け加えて。

「な、なんでぇ!!?お風呂ぐらい一人でッ・・・・ちょ、やめろ変態ッ!!!」

ニーナの悲鳴とキティの怒声が聞こえる。

「おい!!僕が男だって、忘れてないッ!!?」

いつしかクリスの涙声も混じっていた。

 

床の下から水の跳ねる音が響いてくる。足を踏み鳴らし、退屈そうに待っていると錆びたドアが6回ノックされた。クリスはびくりと肩を跳ね、とっさにニーナが磨いていた黒い銃に手が伸びていた。昨夜頭が破裂するほど扱い方を教わったのだ。

そっとドアに近づき、耳をそばだてる。

「名前は?」

何を聞けばいいかわからなかったが、合言葉と名前ぐらいは聞いたほうがいいと頭がよぎった。

「・・・はぁ。名前?・・・オレだよ、ヒョウキ」

クリスは昨夜ニーナの話に「ヒョウキ」という名前が出てきたことを思い出した。本当に髪の毛が銀色になっているのだろうか?目は本当に青いのだろうか?

そんなどうでもいい疑問が湧いたが、クリスはすぐに我に返る。

「合言葉は?」

「えーっとなんだっけ・・・・ここの合言葉は・・・そうそう、麻薬と銃と悪魔。なんてありきたりなんだ」

続けざまにぶつぶつとつぶやいている。完全に頭のおかしそうな人だ。クリスはその独り言に聞き入っていたが、内容があまりにも深すぎて逆に何が言いたいのかさっぱりわからない。ドアを開ければ襲い掛かってきそうなのが一番怖い。

「なぁ、早く開けてくれよ。言ったろ?合言葉」

クリスは慌ててドアの鍵を開ける。ドアを開けた先には、長身の若い男が立っていた。

「あぁ、ありがとう。なんだ、見たことないな」

銀色のたれた髪に黒縁の眼鏡。いかにもチャラチャラしてそうだ。おしゃれに青と黒と白のチェックのスカーフを巻き、底の厚い黒のブーツを履いている。もともと通常より小さいドアを膝を折ってくぐり抜け、近くに置かれたソファに偉そうに座る。クリスはドアの鍵を閉めた。

階段からドタドタと音がし、ニーナとキティが顔をのぞかせた。

ニーナの頭には半濡れのタオルが広げてあり、嫌な顔つきでニーナが自分の髪を乾かしている。キティは満足と言わんばかりの顔だ。

「よ、ニーナ。頼んでた銃はどこだ?」

「来てたのね。えーっと・・・・・クリスが持ってるそれ」

クリスは自分が銃を握っているということをすっかり忘れており、「あ」と声を漏らした。ヒョウキは驚いた目でクリスを見る。その見開かれた目は深い青だ。何もかも飲み込んで、深い深い海底に縛り付ける冷たい海のよう。

ヒョウキは親切そうにニッと笑うとクリスに向かって手を差し伸べた。

「あ、あ、ごめんなさい・・・」

クリスはヒョウキの手に銃を置いた。ヒョウキはまるで吸い込むように、不可思議で滑らかな手つきで受け取ると、銃を膝の上に置いてもう一度手を差し伸べた。

「そうじゃなくて。よろしくクリス・フロストフェロー君♪」

目の下の深いクマはニコッと笑ったヒョウキの顔に影を落としていた。クリスは手を握ると照れたように微笑んで「よろしく」と返した。

「じゃ、ここに来たのは銃を受け取りに来ただけだから。おいとまするぜ」

「いっつもそれね。フラフラして何してるの?」

「変なもの観察♪」

歯を見せて笑う表情はどこか悪質で、背筋に氷が這うようだった。

ヒョウキはクリスの横をすり抜け、ドアに手をかけてからクリスだけに聞こえるように、小さく耳打ちするようにつぶやいた。

「君、もってるねぇ。また会おうね?」

重々しく開かれたドアを、風がばたりと閉めた。ニーナが大きくため息をつく。

「本当に変な奴」

「どこが変なのよ?少しかっこよかったし。ねぇ、クリス?」

ニーナは呆れてキティを指差す。

「馬鹿ね。あたしさぁ、「クリス」としか言ってないよね?なのにあいつはクリスと握手するとき、「クリス・フロストフェロー君」って言ったんだよ?フロストフェローって、苗字だよね?」

クリスはこくりと頷き、握手をした左手を見つめた。キティは呆然としたあと「そういえば」と小首をかしげていた。

 

「やっぱりニーナが銃を手がけてくれると安心だ。ジャム(弾がつまること)ったりもしないしさ」

昼間だというのに無理やり暗くしたような部屋で、オレンジ色のライトに銃をかざしながらヒョウキはまた笑った。おまけに丹念に磨き込んである。

「そんな子供に、銃の整備を任せているようじゃあ人間としても失格だな。お前は」

深い茶色を首につかないように内巻きショートにした髪が、オレンジ色のライトに映える。深い茶色の目は、明るさによって真紅にも見える。髪の色から目の色、性格までヒョウキと正反対だ。

「自分でする分は自分でしてるだろ?ニーナみたいに細かいことができないんだよ」

「だからって子供に頼むことはない。大人に頼めばいいものを」

「まぁまぁ。気にしすぎなんだよ、お前は」

「お前と呼ぶな。私にはちゃんとリディアという名前があるだろうが」

リディアはヒョウキの頭を軽く小突いた。

「そんな物騒なもの持ってフラフラするのはやめろ。見つかったらどうするんだ」

「リディアだって、あの刃が折りたたみみたいな鎌をいっつもギターケースに入れて持ち歩いてるだろ!ていうか、そっちのほうが危ないからな!一体何やってるんだよ・・・」

「仕事だ」

リディアは両腕を組み、鼻の頭を睨むように目を鋭くした。復讐するために。仕返しをするために。敵を取るために。リディアは鎌を掴む。それをリディアは「仕事だ」と言い張っていた。悪魔狩りをしているのはほぼ復讐のためだということを、ヒョウキは知ってか知らずか、子供を見るようにしょうがなく笑った。

「お前こそ、ふらふらするんじゃあない。私の仕事の大切な時にいなくなってもらっちゃあ、私の大切な相棒として困る。いつも言ってるだろう、私は一度相棒をなくしてしまったんだよ。もう少し考えろ。あと、私のプリンを勝手に食べるな」

「はいはい、従いますよしたがえばいいんでしょぉ〜」

適当に返事をするヒョウキをリディアは睨みつけた。

「で、いつもさまよって何してるんだ」

「ん?変なもの観察・・・・・・と、死神狩り♡」

続く

Catherine〜キャサリン〜5 「キャサリン 5」

次の日、教室で起きた火が予想以上に燃え広がり、本日を含む一週間、クリスの通っていたクラスが学級閉鎖になった事を遅くもサリーから伝えられた。喜ぶべきか喜ばざるべきか。

 

「クリス、準備できたかしら?」

クリスの病室に今か今かと待ち飽きたサリーとキティが入ってきた。

「無理に動かない限りは散歩ぐらいいいって。まぁ、散歩程度じゃ済まさないけどね。それに、私はこっちの私たちのご主人の相手をするので手一杯なのよ」

キティが鼻高々と腕組みしてみせるが、大人っぽいサリーの笑いを誘う他なかった。

 

「ここよ」

病院を出て学校の前を通り、15分ほど歩いた場所にある道の隅に忘れられた路地裏。滅多に人が通ることはなく、通る人がいても近道として利用するだけだ。ゴミ箱とゴミが散乱し、もともと狭い道がさらに歩きづらい。ラブホテルと怪しげな雑貨屋の間の道だ。

「・・・このラブホテルと雑貨屋は・・・?」

「もちろん、アジトを作るためだけに作られた場所。雑貨屋の裏にドアがある。そこがアジト。ドアを6回ノック、合言葉は「麻薬と銃と悪魔」。ここが主に取り扱っているのは雑貨。だけどその裏は麻薬だ。そこらへんに売っている銃とはまた違う、強力な銃も売っているから」

怪しげな路地裏を伺うと、3人は雑貨屋の裏口に回った。キティは強くノートを握り締め、深い緑に錆びた茶色の金属製のドアを6回叩いた。

固く響くことのない金属音が6回。

奥でゴソゴソとなにか動く音が聞こえる。人がいるのは確実だ。しばらくの沈黙。クリスは緊張の汗を必死にこらえる。沈黙を破ったのはドアの奥からの声だった。

「合言葉をよこしな」

声は可愛らしい女の子の声をめいいっぱい大人っぽくしたようなやんちゃな声。クリスは驚きを隠しつつも合言葉を思い出す。

「「麻薬と銃と悪魔」。僕はここに来たのは初めてだよ。でも、警察なんたらの類じゃない」

「警察?あたしたちゃぁそんなものには恐れてないよ。確かに麻薬は売ってるけど、悪魔とお相手するにはあんまり知らなくていいことを知らなきゃならないもんでね。全世界の人々が思い知らされないように、隠れてるだけさ。入りな」

奥でガチャリと音が響く。キティがゆっくりとドアを押し開けると、そこは何もかもが錆びた茶色と黒でできた部屋だった。質素な小さな窓の前に机と椅子が2脚、広さは普通の家のリビングほどで、地下と2階につながる螺旋階段が奥に見えている。大きな本棚には所狭しと本が並べられ、もうひとつの大きな机の上には紙とペンが散らばっている。

そして、それを背景に黒い髪の女の子が一人。汚れた手袋をはめた手に大きなスパナを握ってたっている。黒くくすんだ緑色の目でしっかりと睨みこまれてキティは視線を泳がす。

「で、誰?」

「キャサリンの知り合い」

サリーが同じく淡々と答える。女の子は引かない。その色白の肌にはオイルのような黒や茶色っぽい物質が飛び散ったようにこびりついている。

「当の本人は?まさかイタズラできたんじゃないんでしょうね」

「キャサリンは死んだわ。これが証拠」

キティはノートを女の子に見せる。女の子は驚きで目を見開き、キティからノートを奪うと表紙をまじまじと見つめた。必死にノートを見てから、呆然と顔を上げる。

「うそ・・・・このノート、私にも見せてくんなかったのに・・・触らせてもくれなかったのに!」

女の子はクリス、キティ、サリーの順で3人を睨むと、玄関のドアをばたりとしめ、大きな机の方へ歩くとノートを机に叩きつけておいた。

「信じらんない。ごめん、最初の最初から話してもらってもいい?」

 

女の子はキティの説明を聞き終えると、ノートをじっと見つめた。

「・・・・キャサリンが言ってたことは本当なのね」

汚れた手袋を外しながら女の子はつぶやいた。

「言ってたことって?」

「ノートに書いたキャラクターたち・・・その一部があなた、サリーね。全部本物にするんだって、張り切ってた。そのこと話すときだけはイキイキしてた。ノートの中に書いた、自分の世界が全てだったのよ。キャサリンにとってはね」

サリーが壁に寄りかかったまま少し頭を垂れ、俯いた。ノートの中に見た目だけ描き上げられた人物でも、産んでくれた親のことを想う心を持っているようだった。

「どうしてあんたらはここに来たの?キャサリンがそう仕向けたの?」

クリスがキティの後ろから言う。

「違う。キティの叔母を悪魔にやられた。悪魔がいるんだ。キティも危険だったし、僕も怪我をしたんだ。悪魔と戦ってね。でも、ノートの中のキャラクター・・・ガールズ達が助けてくれた。それと教えてくれたんだ。キティが悪魔に狙われてるって」

「悪魔に狙われる?」

女の子はゆっくりとキティを眺め、睨んだ。

「悪魔は気まぐれなの。そこらへんに人がいれば殺す。狙うなんて・・・・なにか、悪魔にとって不利な能力を持つ人間は狙われて殺される。悪魔にとって得するような能力を持っている人は使うために誘拐される。あなた、何かすごい能力持ってるの?」

キティは焦りながら首を振る。

「でも、狙われてるのは確実よ。キャサリンの記憶にそう残ってる。キャサリンの記憶は私たちの記憶だもの」

サリーが答える。女の子は首をかしげ、大きくため息をついた。

「なぁんだかまた面倒なことになりそうね・・・ほかの仲間に助けてもらったほうがいいのかしら・・・」

キティは肩をすくめた。見かねた女の子は慌ててキティにノートを返す。ベリーショートに目立つアホ毛。鋭い目つき。体に巻くような胸当て一枚に、ツナギの上着を腰に巻き、ツナギにも肌にもオイルか何かのシミがついているが地肌は輝くほど白い。

「あ・・・あたしの名前はニーナよ。ニーナ・キャメロット。学校に行ったことないから、頭はバカだけど、銃のことなら何でも任せて頂戴!!ここらへんじゃガン・スミスって呼ばれてんのよ!仲間の敵だもの、協力する!!」

えへんと胸を張り、キティを見下す。キティはヒーローを見るように目を輝かせて立ち上がる。

「あたしはキティ。あいつがクリスで、あの子は黒髪サリー。よろしくねニーナ!」

「任せろってことよ!」

「僕の扱いひどいなぁ・・・まったく」

 

真っ黒の広いホールに華やかでカラフルなライトが辺りを照らし、女は男に寄り添い男は女を抱く。ビッチと変態しか集まらないこのバーは夜になると開店し、お陽さまと交代で眠りにつく。そして今夜も華やかに場は盛り上がる。

5人の少し老けた男がひとつのテーブルで酒を飲み合い、馬鹿笑いを続け、通りかかる美女にウィンクしては投げキスを返されるという行動を延々と繰り返していた。男に女を選ぶ権利はない。それがここのルールだ。

「はぁい、おじ様方♡」

灰色のスーパーロング、右目に厳重に巻かれた包帯と、豊満な胸にほっそりした手足。正真正銘のナイスボディに大きく見開かれた瞳を潤わせた美人。並んで座る5人とテーブルを挟んでたっている。テーブルの上に両肘と胸をのせると誘うように一人の男の顎を指でなぞる。

「お嬢さん。どしたかいね?男に飢えてんだろ?」

一人が冗談を飛ばし、4人は大きく笑った。大きく息を吸うと、色っぽく語りだす。

「私ねぇ、一体一でやるより、大人数に責められるのがタイプなのぉ。そうそう、おりいってお願いがあるのよおじ様」

一人の男の膝の上に座り、色っぽく男の右肩に頭を乗せ、太ももを撫でる。他の男が灰色の髪をつまみ、もうひとりの男が手を取る。

「あたしね、宿無しなの。お金も持ってないし、困ってるの。持ってるの身体だけでね。もしよかったら今夜ひと晩だけ、おじ様たちの寝床に泊めてほしいなぁなんて!」

「歓迎するよお嬢さん」

「本当!?ありがとぉ。嬉しいなぁ」

そして男から頭を上げると、男の唇に人差し指を置く。

「お嬢さんて呼ぶのは終わり。もっと親しく呼んでよ。マリアって♫」

 

Catherine〜キャサリン〜4 「キャサリン 4」

キティは数学教師の腕に駆け寄る。教師が倒れて動かなくなると教室から逃げ出す者、ビクビクと震えるだけで逃げ出せない者、悲鳴を上げる者。クリスはとっさにロッカーの中から実験用のマッチを掴み出し、火をおこして床に放った。

「みんな!!先生が、火を・・・!火事になる前に逃げろ!先生から逃げろ!!」

無茶苦茶だと思ったが、生徒を退散させるにはこの方法しか思い浮かばなかった。数学教師は煙草をよく吸うのでライターを持っていたし、そのことは生徒なら誰でも知っていた。そして、キティが発した言葉。「先生は暴力が嫌い」。この数学教師(名前は忘れてしまった)は、学校の中でも熱血的で、授業も声が大きい。生徒に一切暴力を振るったことがない。頭を軽くたたくことも、背中を叩くことも。生徒を触る事を嫌っているかのような先生だった。そんな先生がクリスを殴った場面を目にしたところで、生徒全員が思っただろう。「今の先生は先生ではない」と。

キティは先生からノートを奪うと、クリスのもとへ駆け寄ろうとした。

「クリス!!ノートはとっ・・・・!!?」

キティがクリスに近づこうとした瞬間、何者かに押し倒されるように、何もないところでキティは窓側に吹っ飛び、窓を突き破って見えなくなった。

「キ・・・・・キティッッ!!!!!!」

クリスは叫び、キティが落ちた窓辺に寄ろうとするが、教師の高笑いで止められた。

「く・・・・・・・っそ野郎!!!!」

「なんだぁ、その程度か!?口だけは達者だぜ!!」

教師の目はいつしか真っ黒になっていた。口調が全く違う。背中が凍りつき、炎の煙で警報が鳴り響き始めた。はっとしたクリスは警報をスタートに、教室の出口へと全力疾走を始めた。が、それを見逃すわけが無い。クリスは見えない何か(教師の魔力だろうか)に引っ張られるようにして机の山に背中から飛び込んだ。口の中の血が増え、一気に飛び出す。火が出回り始め、視界が赤くなる。

教師が歩み寄り、クリスを見ては笑っている。最後の力一心でクリスは教室の床をつかみ、出口へと這いずる。目が純血し、口からは唾液と血が混じって排出され、小さな細い道を作った。

教師が足を思い切りクリスの背中に押し付け、食い込ませるようにグリグリと踏みにじる。喉の奥からガラガラと発せられた深く低い悲鳴がこだまする。

「俺が誰だかわかってるのか?まぁ、いつものセンセーではないことはわかってるみてぇだ・・・俺が悪魔だってこと。お前は知ってるんだな?ファンタジーの世界でしか見たことないだろ!?ほら、どうだ!現実で見れてよぉ!!!」

タァアンッ

 

クリスは背中に教師の殻が倒れてきたことに気がつくのが遅かった。荒くなる息。口からも鼻からも血を滴らせたまま、虚ろな目で教室の入口を見る。

濃い灰色のスーパーロング。どこのものかわからない、クリーム色のような珍しい制服。造花のシンプルな首飾り。左目には膨れ上がるほど厳重に巻かれた包帯とその横の目が、クリスを睨んでいる。右手には、矢のない弓。

「丸腰でこの世界に踏み込むなんて、馬鹿もほどほどに言えなのです」

クリスはその言葉を最後まで聞くことはなかった。

 

「キティ・・・・・・・キティ」

両頬と口がじんわりと痛い。体に力を入れることができないが、その感覚は確かだった。誰かに抱き上げられている。全身に痛みは全くない。

「キティ・・・・・大丈夫?・・・・」

優しい声。ゆっくりと揺さぶられる。

「スゥジィの奴に聞いたわ・・・・もっと早く助けるべきだった」

キティはゆっくりとうなだれた目を開いた。真っ黒のボサボサポニーテイル。右目が前髪で隠れてよく見えない。そして、作られたかのような目。真っ白の肌。見間違えもしない。キャサリンのノートの中で何度も見た女の子。

「・・・・サリー・・・・・助けてくれたのね・・・・」

厳しい表情から一転、サリーは苦手な微笑みを見せた。

「キャサリンは死んだ。私たちの生みの親は死んだわ。だけど、私たちは生きてる。ノートがなくならない限り、私たちはあなたとあなたの大切な人を守るわ、キティ。それが私たちの生まれてきた理由」

キティが落ちたきた場所であろう、校舎の裏側からサリーはキティを抱き上げたまま立ち上がった。

 

「クリス!起きて、ねぇクリス!」

「キティ。いくらなんでも無理やり起こすのはよくないわ」

クリスはクラクラする頭をたたき起こそうとした。脳の奥が痛み、小さく呻く。その声に反応したキティが寝たきりだったクリスに飛びついた。

「クリス!!」

「待て、キティ。ここは病院よ。静かになさい」

お前ら親子か。

「うッ・・・・腹痛い・・・・」

「クリス!クリス、くりしゅッ・・・」

サリーがキティの口を塞いだ。

「はぁ・・・・ひどい目にあったな・・・・病院?なぁ、あれから何日たってる?」

もはや驚く気力も焦る気力も無い。サリーはキティの口を塞いだまま答える。

「2日だ。私がいることに驚かないのね」

「あぁ、驚いてやる。誰だよ」

クリスはもはや燃え尽きた冷ややかな目で突っ込む。

「キャサリン・ガールズよ!!ノートの!!黒髪サリーっていうの」

 クリスははっと目を見張る。真っ黒の無駄にボサボサした髪。無理やりポニーテイルに仕立ててはいるが、右目が前髪で隠れている。左目は作ったかのような黒目。姐御肌というのだろうか、とても知的に見える。さらに知的な声だ。

「キャサリンの記憶は私たちの記憶。悪魔を素手で倒すのは無理よ。せめてナイフか銃が必要。悪魔を殺すために作られるナイフは逆に天使をおびき寄せてしまう可能性があるの。効率的に進むには銃よ」

「ま、待ってよ。天使って・・・・天使までいるの?勘弁してくれ、これでヴァンパイアだの幽霊だのいるって言われたらたまったもんじゃ」

「えぇいるわ。キャサリンはチームの中で最年少のハンター。もちろん狩るのはそういった類のもの」

淡々と喋るサリーはそこで口をつぐみ、クリスは睨んでから続けた。

「なんでも殺したわ。幽霊もね。人を殺すような仕事よ、幽霊が完全に取り付いてしまった人間は有無を言わさず殺す。一種の人殺しよ。もちろん誰にも見られないで、証拠も残さず。キャサリンはそのプレッシャーと学校で友達のできない一人ぼっちの生活にストレスを溜め込んでいたのよ。話せる人なんていなかった。キティ、あなたにもね」

「どうしてキャサリンはハンターをやらなければいけなかったの?」

キティは不服そうに、悲しそうに尋ねた。サリーは淡々とした面持ちでキティの頭を撫でる。

「両親の莫大な借金。一家心中でキャサリンは生き残ってしまったのよ。一気にお金を貯め込むにはこっちの世界で生きるしかない。必死だったわ」

悲しそうに窓の外を眺めるサリーの目を、キティは見つめていた。そして、サリーは言い忘れを付け加えるかのように唐突に話しだした。

「私達はノートの中の住民よ。ノートを燃やされたり、ページを破られたりしたら死ぬわ。それと、みんなそれぞれおかしなところがある」

サリーは自分の目を指差す。

「まず、みんな痛みを感じない。気持ちいいだとか、気持ち悪いだとか、そんなのもない。ただ性格はあるから、扱いには注意してね。今はカラーコンタクトで隠してるけど、私の両目は真っ白よ。これでもましな方。ほかのみんなは血が出てるんだから」

血が出ている、という言葉でクリスは助けてくれた少女を思い出す。右目に厳重に巻かれた包帯。灰色っぽい色のスーパーロング。

「ねぇ。右目に包帯巻いた、灰色の髪の長い子いない?僕その子に助けられたような気がするんだ・・・助け方荒かったけど」

「あぁ・・・・・ええいるわ、マリアね。天真爛漫な子。ガールズの中で一番気弱そうでオロオロしてそうな子だけど、そんなのは化けの皮」

「うわあ」

「ものすごい毒舌のウザさに敬語を混ぜてうざさアップ」

「うわあああ」

「ついでにビッチときたもんだ。今もどこにいるのかわからない。きっとその辺の風俗にでも寄って男何十人もはしごしてるんでしょうね。一人ずつじゃなくて大人数がお好み」

「うわあああああいらない情報」

「まぁそんなことどうでもいいのよ。話を戻すわ、銃ね・・・キャサリンが所属してたチームのアジトへ行きましょう。そこでの合言葉も知ってるからね。事情を話して銃を貰えばいい。他でなんて手に入らないでしょ?」

サリーはクリスの座っているベッドに両肘をつけ、「まずはあんたが治ることね」とつぶやいた。

 

 

Catherine〜キャサリン〜3 「キャサリン 3」

「いいかい、キティ。今から調べるからね。キーワードをくれないか?」

クリスは小さな自分部屋として使っているアパートにキティを呼び出していた。ノートを大事そうに抱えたキティが微笑んで頷く。クリスの部屋は白いザラザラした壁にカラフルな絵の具がこびりつき、床に座れる場所を作ろうと壁際に寄せたキャンバスが散乱し、さまざまな種類の絵の具のチューブが床を這っている。いたる所に置かれたジュースの瓶、ペン立て、マグカップにはそれぞれの絵筆が突っ込まれてうなだれている。かろうじて踏んでも汚れない絵の具のこびりついたカーペットの上にノートパソコンを広げ、クリフはキティに苦笑いを噛み潰し、微笑み返す。

「悪魔ってキーワードはあるね。他はどう?」

「スゥジィに聞いてみるわ」

キティは早速、胸に抱いていたノートをめくり、2ページめを開く。ペン立てからシャープペンシルをひったくると、ノートの隅に小さく文章を書いた。「Teach the name of the devil(悪魔の名前を教えて)」と。

クリスは片眉を釣り上げ、妙な顔つきでその光景を見ていた。

やがて、その文の下に同じくらいの大きさの字で返答が書かれ始めた。キティはペンを持っているだけで、書いていない。ノートに次々と線が引っ張られ、文章になっていく。それはノートから染み出しているようにも見え、奇妙な光景。文字は深い赤色だ。

思いがけない現象に、クリスは目を見開いた。

そして、書かれた文章。「V classis(ウー・クラシス)」。

「ウー・クラシスだって。スゥジィが」

「ねぇ・・・・そ、れはさ、スゥジィにしか聞けないの?」

他にも聞きたいことで頭がいっぱいだったが、疑っているのだと怪しまれないように他愛の無い質問を選んだ。

「いいえ、アリソンとマリア、ミシャにサリーがいるわ」

つまり合計5人。キャサリン・ガールズは5人いるのだ。クリスは頭が混乱したまま微妙にぎこちなくキティに微笑みかけ、慌ててノートパソコンに向き直った。

「ウー・クラシス、ね・・・」

ブルブル震える指でキーボードを叩き、検索結果を広げた。一番に出てきたサイトをクリックする。そこには、ウー・クラシス以外にもいろいろな悪魔の名前が載っていた。 classis(テー・クラシス)、X classis (イクス・クラシス)、Y classis (ユー・クラシス)、Z classis (ゼータ・クラシス)。

「・・・ウー・クラシスは5段階ある悪魔の中で4番目。尋常の人間よりも強くて、テレキネシスも使える。見分けるには、目を見る必要がある。目が真っ黒ならコイツだ。だけど、普通の目にすることもできるみたいだよ」

「やっぱりね!スゥジィが伝えてるのは本当なんだよ!!」

喜びまわるキティの横で、クリスはあっけらかんとノートを見つめていた。キティが歓喜の声を上げるさながら、クリスはそっとノートに手を伸ばしてみたものの、触ることは出来なかった。クリスの中の想像上の鳥が「これは触っちゃダメだ!危険!」と言い、野次がどんどん鳴り響いていた。さらに想像上の犬が「触ってしまえ!面白そうだ!」とやかましく吠えた。

だがクリスは結局触れなかった。

 

キティが満足した面持ちで泊まっているホテルに戻ったのは2時間前。

クリスは早速、部屋の中心にデカデカとキャンパスを置き、左手にパレット、足元には水入れと絵の具のチューブ、顔料入れを散らばせ、ついでに床や壁や自分自身に新しい絵の具を撒き散らし、右手に絵筆を握りしめている。絵の具と汗にまみれた額や顔を気にしつつも、またキャンパスに書き殴る。赤と紫と濃い緑が織り成すコントラストを一切乱さないように構成された3色の目立ち具合は、下描きなしで描いたとは思えない出来ぶりだ。デフォルメされた犬が、リアルな巨大鳥についばまれ、食い散らされる絵。絵の具でびしゃびしゃになった両手で描き続ける。

「・・・」

無言で放り落としたパレットと絵筆はカラフルな3色の絵の具をまき散らしながらフローリングに落ちた。夕方の薄暗く、赤い部屋の中で。上がった息を整えようと胸ぐらをつかんだ。その手についていた絵の具で、シャツに手形ができる。

「・・・悪魔って」

クリスは唇を噛み締め、顔料の入ったバケツを何種類も引っ張り、ひとつのバケツに少しずつ入れて混ぜ、真っ黒な色を作り、大きな絵筆を何かにとりつかれたようにそのバケツに突っ込み、キャンパスに向き直った。

そして、キャンパスをこれでもかというくらい、黒い絵筆で殴った。丸みのある愛らしい犬を。獰猛で今にも出てきそうな鳥を。悪魔の黒で。

 

気がつけばそこは色とりどりなステージに変わってしまっていた。カラフルな中、大半を占めるのは黒だった。クリスは絵の具まみれの手の甲で、ほほの汗をぬぐい、大きく息を吐く。

「一体なんなんだよ・・・」

尻餅をついたフローリングにも絵の具は飛び散っていた。

 

次の日は気が重いまま学校に登校した。二人はいつもの4階隅の教室に足を踏み入れた。

「今日はちょっと寒いかもね」

キティは太陽光を受けてキラキラ光る髪をかきわけた。肩にかけたカバンのメッシュポケットにはノートが入っている。

「昨日の夜も冷えたからね」

「どうせ、昨日も勉強しないで絵を描いてたんでしょ!あの部屋掃除しないと、追い出されちゃうよ!」

 

一時間目の数学の授業はもちろん聞くだけ聞いて流していた。キティは熱心にノートをとるが、その横でクリスはタオルをマフラーのように首にかけて口を隠し、手遊びしたり小説を読んだりと全く授業に集中しなかった。

「もう。そんなんだから頭に入らないんだよ」

「入れようなんて考えてない」

クリスは鼻をすんと鳴らした。どうも体調が悪い。風邪気味だ。

まだ若い男の数学の教師はちらちらとキティを見てはその真剣ぶりに微笑んでいた。

数学教師は生徒が問題を解いているのを待つさながら、キティの近くに歩み寄ってきた。

「もう解いたのか。しかもあっている。計算が得意か?」

「はい。文章問題はちょっと苦手ですけど・・・」

「その計算力で十分だ」

恥ずかしげに微笑むキティの目を奪い、数学教師はキャサリン・ノート(何故かこの名前が馴染んでいる)に手を伸ばし、掴んだ。

「・・・でも、授業に必要のないものは没収するよ」

キティは目を見開いた。

「あ、あの・・・・ごめんなさい、すぐにしまいますから、返してください、大事なノートなんです・・・キャサリンが残してくれた」

「不要物を回収するのは、教師の仕事の一つでもある。すまんな、キティ」

クリスは少し睨むように数学教師を見た。が、キティを見ている教師は気がつかない。

ふと、数学教師が瞬きをした。目が一瞬真っ黒になる。

クリスは昨日書いた真っ黒のキャンバスとパソコンの文字を思い出した。「目が真っ黒」

クリスは勢いをつけて座席に両足をつけ、キティを通り越して数学教師に手を伸ばし、殴りつけた。男は不意をつかれた悲鳴を上げながら、体を横に倒す。いきなりの事態に、キティが叫ぶ。

「クリスッ!!!!?」

キティの座席を通り越し、床に突っ伏した数学教師の手からノートを奪い去ろうとしゃがみこんだ。もし、見間違いだったらという不安感がどっと押し寄せてくる。ほかの生徒たちは恐怖からか、席からピクリとも動かずに小さな悲鳴を上げたり、ただただ呆然と目を見開くばかりだった。ハルの言葉が頭をよぎる。「ノートは持っていろ」と。

「触るなッ!!!!!!」

数学教師が勢いよく起き上がり、右手の拳でクリスの顎を下から上にかけて殴りつけた。悲鳴を上げるまもなく、今度はクリスが床に突っ伏し、丸くなった。爪が掌に食い込んだのか、数学教師の手からは血が滴っている。

「まったく・・・・何をするんだ、クリス・・・」

キティがブルブル震えて数学教師を見上げる。ほかの生徒たちは、両手を口に持っていき、怯えている。男子生徒は恐ろしいながらも次に何をするのか期待をしていた。

「先生・・・・って、生徒に暴力振るうのは嫌いって・・・言ってましたよね・・・・?」

キティのその言葉を合図にクリスは起き上がり、右肘を深く教師の腹にめり込ませ、おまけにタックルした。数学教師は吹き飛び、黒板に頭を強打して床に崩れる。2人のうめき声が教室に響いた。

「キティ!!ノートを取り返すんだ!!!」

クリスは口から血を零しながら叫んだ。